泣き言を言う社会不適合者や、性格の悪いうそつきほど社会によって救われるべき
「社会不適合者の泣き言」は、「社会不適合者を助ける義務はない」という文脈でよく使われます。
私は、性格の悪いうそつきや、社会に対して不満を撒き散らす社会不適合者、頭の悪いやつほど、社会によって救われるべきだと思います。
恵まれた家庭に生まれて、何不自由なく育った人は社会不適合者にならない。
社会不適合者や、性格のうそつきたちは、なるべくしてそうなってきました。
きっと、経済的にも豊かで愛情に恵まれた家庭で育った人たちは、性格が卑屈になることも、就職や進学で失敗することもありません。
愛されているから、自信があり、自信があるから自分の努力が実ると信じて努力できるし、愛されているから他人を愛することも出来ます。
一方で、親から「おまえには無理だ」「生まなきゃよかった」なんて言われて育った人にとって、自信を持つことも、努力をすることも、時には友達を作ることも困難なんです。
そもそも、社会に適合して、豊かに暮らしている人なんて社会が助ける必要ないですよね。
助けを必要としている人こそ、助けを得るべきです。
社会から救われるために、一定能力を有している必要はない
子供の甘い理想だと思う人もいるでしょうが、万人が幸せである社会のほうが、一部が見捨てられる社会よりも良いと思います。
だから、泣き言をいう社会不適合者や、汚く臭いホームレスでも、自己責任の落伍者でも、
「無理だから見放す」のは仕方ないけど、「見放すのはが正義」にはなりえないと思います。
むしろ、「自己責任」なんて社会責任を無視した無責任な発言です。
それに、「自分は努力していない」なんて心の底から思っている人なんていません。
「努力しようとがんばってるけど、努力できない」もたくさんいます。
そういう人たちに、向かって「努力が足りない」は善意のアドバイスではなく、優越感を満たすための言葉だと思いませんか?
でも、はっきり言って弱者は醜いものです。
酷な境遇が彼らの人格を捻じ曲げ、卑屈で攻撃的になってしまうケースが多くあります。
慰めようとしたり、助けようとしたら、暴言を吐かれることもあるでしょう。
ちょうど虐待で人間不信になった動物が爪を立てるように。
でも、それでも、彼らの助けになりたいと思えるような人間にならなきゃいけないと思います。
難しいし、失敗してもいいし、たまに怒ってもいいけど、とにかく目指すべきだと思います。
でも、弱者は自己救済のために自助努力するしかない
しかし、現実の現代社会は弱者救済が行き届いていません。
そして、どんなに弱者が正論を叫んでも、政府や人々がすぐに彼らに手を差し伸べることはありません。
正論は無力です。どんなに正論を叫んでも、自分を幸せにすることはできません。
残念ながら、自分の問題を自分で解決することでしか、人は幸せになれないのだと思います。
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